読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

わたしの読書記録

f:id:sandgotinmyeye:20160330101951j:image

上海に来て半年以上になるけれど中国語が全然話せない。なぜなら話していないからだ。留学生しかいない大学で留学生の友達と交流して生活してきた。中国人の友達はいないし知り合い程度の中国人はだいたい日本語が話せる、だから知りあった。留学生通しで話していても同じレベルの語彙力で同じように話しているだけなので特に進歩はない。こっちに来てから明らかに韓国語のが話せるようになった。今現在韓国語と中国語、どちらのが話せるかと聞かれると韓国語のが話せる。3年間大学で毎日学んだのに趣味が高じて手を出していた韓国語に一瞬で追い抜かれたのでなんとなく悲しい。

ただ読み書きは中国語の方が圧倒的にできる。韓国語の本を読めと言われたら数行読むだけでも相当な労力を使うけど中国語なら簡単な本は読めるようになった。本が読みたくなったら日本語を諦めてそこらへんの本屋さんで表紙がいかにも恋愛っぽい小説を買ってきてちまちまと読んでいる。

わたしがいつから日本語を読めるようになったのか、どうやって長い文を読めるようになったのか全く記憶にないけれどわたしの読者記憶は小学校一年生のときからならわりとしっかり思い出せる。

小さい頃、日に当たると肌がただれてしまうアレルギーがあっていつでもどこでも長袖にサンバイザーをしていたのでそれが恥ずかしくて外に行くより中でなにかするほうが好きだった。その影響もあってかすでに本が大好きだったわたしはいつでも使える図書館にめちゃくちゃ興奮した。小学校一年生の春の時点で学校にあるかいけつゾロリシリーズ50冊くらいを全部読んでしまった記憶がある。

毎日の楽しみだったかいけつゾロリを読みきってしまい途方にくれたわたしはその後偉人たちの伝記シリーズに手を出してみたが偉人の生い立ちが書いてあるだけで特に面白くなかったような気がする。その頃から歴史嫌いの兆候が見える。

小学校中学年にもなると海外の童話文庫シリーズみたいなやつを読み始めた。表紙がおしゃれで読んでると賢そうに見えるのだけは好きだったが本自体には全くのめり込めなかった。ストーリー云々よりも横文字の登場人物の名前が全く頭に入らなくて登場人物が把握できないのと、淡々とした翻訳文に面白みを感じられなかった。今でもわたしは全く同じ理由で海外文学が全く読めない。

ファッションで海外文庫を片手に持つのにも飽きたわたしはようやく日本の現代文学に手を出しはじめた。当時小学校の図書館に置いてある大人な雰囲気を感じられる本は森絵都のカラフルが最高だった。カラフルはおもしろくて素晴らしかったがそういう雰囲気の本を他に探してもなかった。図書館にある中で一番大人っぽい本を小学校3年生くらいで読み終えた。

どうにもこうにも読むものがなかったので図書館の右奥の隅っこの誰も行かないゾーンの棚に埃をかぶってボロボロになりながら並べられていた日本の有名文学作品を読むことにした。当時、夏目漱石の心を読んだときとにかく重くて疲れた。手書きの遺書を原稿用紙で想像して、うちの学校の生徒の夏休みの読書感想文全員分合わせてもその量にはならなさそうだなと思った。

有名文学作品も暗くて重いものばかりで当時のわたしには疲れるものだったのでやめた。小学校中学年にして太宰治の「自殺」とか「薬物」とか「女と酒」とか、みんなが外で鬼ごっこしてるのを見ながら教室でそんな世界に触れていた。

読むものがなかったので図書館の隅から隅まで読んでみようとしたものの開始の左隅が科学コーナーだったのとその隣が性教育のコーナーだったので数冊読んでやめた。

小学校高学年になると生徒向けの図書館の本を読むことを諦めて職員室の前にあるPTA向け図書を先生に特別に許可をもらって読み始めた。棚は小さく、今度こそ隅から隅まで読めそうだったのでほとんど隅から隅まで読んだ。

綿矢りさのインストールと蹴りたい背中が中でも特別好きだった。蛇にピアスは刺激が強くてびっくりした。いろんな小説に触れて小学生ながら性描写にも慣れっこだったがちょっと格が違ったような気がした。世界の中心で、愛をさけぶもここにあって読んだ気がする。当時のPTA文庫の中ではリリーフランキーの東京タワーが人気でいつもお母さんたちに借りられていた。

同級生の中で賢い子たちはハリーポッターシリーズや三国志を読み始めていた時期だったが上に書いた理由で一冊だけ読んであとは読めなかった。ハリーなんちゃらが出てきすぎて誰が誰だかわからない。三国志に関しては中国学科に在籍する今でも、何度挑戦しても2ページ目でめげる。どこの国の誰だか、2つ以上把握できない。

中学生になると本が買えるだけのお小遣いをもらえるようになった。田舎だったので自転車に15分乗ると行ける町唯一の本屋さんに暇さえあれば行っていた。栄の駅構内の本屋よりも小さいような本屋で今行ってみると見るところもないような本屋さんなのだが当時はワンダーランドだった。暇さえあれば行って隅から隅まで把握して、次のお小遣いで買いたい本を決めていた。小説だけでなく漫画や雑誌も既に好きだったので隈なくチェックし漫画か雑誌か小説か何を買うかに頭を悩ませていた。小学生の時は雑誌のハナチュー成海璃子が大好きだったがいざ中学生になると雑誌で熟読して夢にまで見た中学生活からかけ離れすぎて嫌になったのでハナチューは読まなくなった。高校生活に夢を託してセブンティーンに移行した。

中学校2年生のときは休みのたびに親に頼んで車で20分走らせないとつかない隣町の大きめの図書館に通っていた。開演時間にお弁当を持って乗り込み夕方にお母さんが迎えにくるまでずっと図書館にいた。図書館で雑誌も見れたのでノンノやダヴィンチを読んだ。ダヴィンチを読んでからその中で有名そうな作家の本を隅から隅まで読んでいった。当時は桜井亜美嶽本野ばらの小説をひどく気に入っていた。嶽本野ばらが薬物で逮捕されたニュースを見たときは図書館にある本が全部撤去されるんじゃないかと心配してとりあえず借りれるだけ借りて二週間家に保管したが嶽本野ばらコーナーが撤去されることはなかった。

中学校三年生になると勉強に追われたので(実際ほとんどしなかった、勉強に追われてるという思い込みのストレスでとにかく眠くていつも寝てた)本からは遠ざかった。

受験勉強の自習の時間はほぼ睡眠に充てていて学校の先生から親に電話がかかってくるくらいだったが国語の自習時間だけは好きだった。問題を解くのが好きだったのではなくて単純にランダム読書みたいで楽しかった。難しい私立高校の国語の問題はおもしろい物語が多かったので国語だけは行けるはずもない難しい高校の問題を読むだけ読んで、問題を解きはしなかった。

その頃だったか、車で30分くらいいったところにブックオフができたというので親に頼んで行ってみたら本が一冊数十円とかでパラダイスだ!と好きな作家の本を並んでるだけ全部買った記憶もある。あの頃は本屋さんに行くのも必死だった。親にどこいきたい?と言われると必ず本屋さんと答えていた。

高校生の話もあるのだがクソサブカルに直進していたので割愛する。

本は受動的にも能動的にもなれるところがわたしにとてもあっているのだと思う。

母親に似てなにもしていないということが激しく苦手なわたしは、寝るとかテレビの音を聞いてるとかそういうことでもいいからなにかをしていないと狂いそうになってくる。なにもしないで、無でいる時間は、お椀を伏せても一定のペースで出され続けるわんこ蕎麦を知らない人に取られて目の前でゴミ箱にむかって乱暴に捨てられていくような気持ちになる。もったいないからどうせ捨てるなら少しは食べておきたくなる。とっておいて後でまとめて食べたいのにそういうわけにもいかないし諦めて捨てられるのを眺めるのもいやだ。それに捨てるなら自分の手で捨てたい。

楽しい時は時間が早く過ぎるような気がするし退屈な時や悲しい時は時間が過ぎるのが遅く感じるけどそれはお腹いっぱいなときに食べるラーメンがそんなにおいしくなくてお腹が空いてる時のご飯ラーメンはめちゃくちゃうまいのと同じだと思う。好きな時間に注文して好きな量を食べられたらいいのに、時間というものは少量ずつ、機械みたいに止まることなくずっと与え続けられる。しかもその瞬間に食べないと捨てられる。いつかぱったりと止まるんだろうけど。

読書はもぐもぐ噛み締めて味わいながら読むこともできるし、ただ単に文字を読むことでなにかをしている状態になれるのもいいし、読み終わった後に他ごとをしながらその世界にふと戻れることがいい。

お腹いっぱいなときはただただ与えられる文字やストーリーを受動的に流していけばいいし、お腹が空いているときは能動的にがっつくこともできるしお腹はいっぱいなのに気持ちが満足できなかったら、本を読むのから一旦離れてストーリーや人物に想いを馳せたり自分に置き換えて考えてみたりしてもいい。

その時の自分の状態にあわせてどういう向き合い方をしても誰にも怒られないしとてもいい。

小学生の時図書館にあったカラフルやPTA文庫にあるインストールを読みながら、中高生になったら小説みたいな非日常的な日常が少なからず訪れると思ってた。制服を着て街に出たら世界が小説の中のように淡々と流れて思考は文章のように簡潔に、でも若干の切なさと憂さを帯びた魅力的なものになるんだと思ってた。制服を着た生活の中では、クラスのどこか大人びて悲しげな男の子を見つめていたらなにかのタイミングで目があって放課後に言葉もなく視線だけでお互いの気持ちがわかってストーリーが始まったりすることがあるんだと思ってたしクラスの美人は素知らぬ顔で援助交際をしたりしてるかもしれないようなことが起こるんだと思っていた。けど実際の中高の生活は小学生の延長だった。劇的なストーリーは起こらなかったし綺麗な女の子は援助交際していなかった。彼氏と手を繋いで歩いてた。

よく本の帯に「リアルを切り取った」「リアルで痛い」とか書いてあるような気がする。だからリアルな恋愛はいつだって変で、少し狂気的でものだと思ってた。少ない会話を交わしたあとに自然にくっついて何回か関係を持って自然に別れるんだと思ってた。そういう小説をすごくたくさん読んだ。

実際にまわりの友達は別冊マーガレットみたいな学生生活を送っていて部活の友達と付き合ったり、告白したりされたりしていた。言われてみると小説の中で告白して「はい今日から1日目!」というストーリー展開のものをあんまり読んだことがないので「今日で3ヶ月」とかやってるカップルをみてわりと不思議な気持ちだった。本の中の物語は目があった瞬間から全てがスタートする。当時わたしは別冊マーガレットじゃなくて浅野いにおを読んでいた。すぐにわたしの漫画を読もうとする親に読まれて頭がおかしい子供だと思われたらどうしようとは思った。

憧れていたわけではない。今もそういうストーリーに憧れているわけではなくて、なんとなく勝手に普通に生活していたらどんな人でもそういうことがあるんだと思っていた。主人公には冴えない普通の人が多いしわたしも冴えない普通の人だからそうなるんだと思っていた。違うんだろうなということは薄々ずっと気がついていた。

最近もう一つのことに気づきはじめた。全くおもしろみのないわたしの生活も淡々と語っていったら物語になるんじゃないかと思った。ストーリーは書かれることで浮かび上がってくるんじゃないかと思った。

深夜1時に中国のコリアンタウンからタクシーに乗って家まで帰り、門の前で行為寸前じゃないかという過激なキスを繰り広げるカップルを横目に、韓国人の総菜屋のお店のおばちゃんが売れ残ると届けてくれるキンパを落とさないようにぐったりとしながら慎重に階段を上がるというわたしにとって毎日の当たり前のなんの感情もない光景も、文字にしてみたらわりと大丈夫な気がする。

物語性のないつまらないわたしの生活も、学校のPTA文庫を読む大人びた小学生には、ありえなさそうな、でもありえそうな、大人になったらこういう生活をすることもあるのかなって想像して楽しめる、色のあるストーリーなのだろうか。